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断酒会への参加

世の中には、飲酒の依存から抜け出すための『断酒会』という組織が存在しています。

先日、「飲み屋依存」についての記事を書きました。
書いた数日後、お恥ずかしい話ですがまた酒量をコントロールできずに飲み過ぎてしまいました。かつての飲み友を呼びつけて、立ち飲み屋にて飲み過ぎてしまったのです。
翌日、例によってひどい二日酔いに悩まされました。
頭痛に悩みながら、以前に通院しているクリニックの医師に「お酒を飲み過ぎてしまう」と相談したことを思い出しました。そのときの医師の答えが「断酒会というものがあります。参加してみてはいかがですか」というものでした。





その断酒会を勧められた当時、「自分は毎日飲んでいるわけでもないし、”断酒”まではしなくてもいいだろう」と思っていました。
しかし、そう思ってからも、友人と飲むたびに二日酔いでのつらい体験を続け、お酒の飲み過ぎにより仕事を休んだりもし、お酒の飲み過ぎによるトラブルを起こした後も、結局自分では酒量をコントロールできませんでした。
今回、さすがに自分自身で危機感を覚え、『東京断酒新生会』のサイトへアクセスしてみました。

サイトでは依存症をテストによって判別できるページがありました。早速やってみたところ、見事に「依存症の疑いあり」でした。家で飲む習慣もなく、一人で飲む習慣もないにも関わらずです。
そこで、サイトに表示のあった番号に電話をかけ、相談してみることにしました。
少し相談してみた結果、とにもかくにもまずは断酒会の例会に試しに参加してみることになったのです。

東京断酒会は、ほぼ毎日各地域にて開催されています。自分の居住地域に関係なく、各例会に参加できるとのことです。
都合のよい日程の例会が近所でありましたので、そちらに参加してみました。
ちなみに、参加費は100円でした。

断酒会では、参加者がひとりずつ最近の自分自身のお酒での失敗体験や、断酒会に参加し続けてよかったこと、断酒会に参加しようと思ったきっかけや、断酒する以前に考えていたことなどを発言します。
他の参加者はそれを聞くだけです。議論などは行いません。聞き終わったら拍手をします。それだけです。それだけの繰り返しです。
「それだけ」なのですが、参加者ひとりひとりのお話を聞いているうちに、自分の中に「気付き」が発生します。この「気付き」こそが断酒会の主たる目的のようです。

参加をしたからといって他の参加者から無理やり「お酒を止めないとダメだよ」などと言われるわけではありません。ただ、他の参加者の話を聞く中で「気付く」のです。
今回の例会で私は「気付き」ました。お酒はやはり止めよう、と。
他の参加者の体験や考え方などを聞いているうちに、自然とそのように「気付き」ました。もちろん、「お酒を止めたいと思ったから参加した」という原因もあるとは思います。

おそらく、参加し続けることに意味のある会なのだと思います。
一度参加したからといってお酒が止められるわけではありません。
参加し続けることによって「気付き」が続きます。他のたくさんの参加者の話を聞くことによって「気付く」ことはたくさんあるのだと思います。
「気付き」により、自分自身でお酒を止めることができるようになる集まりなのだと思います。

「断酒」のゴールは「お酒を止めること」ではないような気がしてきました。「断酒」とは「お酒を飲まないことを続ける」ことなのだと思います。
したがって、「断酒」にはゴールはありません。

断酒会の会員の方と変える方向が一緒だったので色々とお話を伺いました。
その方曰く、「自分が断酒会の会員として活動を続けているのは、自分がお酒を止められたのは断酒会のお陰なので、その恩返しをしている」とのことでした。
断酒会は、そういう人の気持ちの「縁」で成り立っているのだと確信しました。

自分のお酒の飲み方で何か悩みがある方は、一度断酒会に参加してみてはいかがでしょうか。

▼NPO法人 東京断酒新生会
http://tokyo-danshu.or.jp

▼公益社団法人 全日本断酒連盟
http://dansyu-renmei.or.jp






被害妄想や自意識が強かった時期

もうどれくらい前でしょう、「被害妄想」や「自意識過剰」が非常に強かった時期がありました。
道を歩いていて、すれ違う人が笑顔だったら当たり前のように自分が笑われていると思っていました。すれ違う人が真顔だったら自分に怒りを感じていると思っていました。すれ違う人が泣き顔だったら自分のせいで泣いていると思っていました。
笑われていると思うのは「被害妄想」で、怒りや悲しみを自分のせいで感じていると思うのは「自意識過剰」ですね。





夜寝るときは、向かいのアパートからボウガンか何かで毎夜狙撃されると思っていました。これも「被害妄想」であり「自意識過剰」でした。
「被害妄想」と「自意識過剰」は度々同時に発生するものだと私は考えます。「他人が自分のことを常に考えている」とか「他人に自分がどう思われているか」とかが度を越してしまうと「自意識過剰」で、「他人が自分を攻撃しようとしている」とか「他人に自分は嫌われている」とかが度を超すと「被害妄想」と呼べるでしょう。
どちらも似ていますね。「他人」が「自分」をどう思っているか、その考え方がどちらも根底にあります。

「他人」の考えは、結局のところその「他人」本人にしかわかりません。「他人」に今何を考えているかを聞いたところで、その答えが本当に今考えていることなのかどうかはその「他人」本人にしかわかりません。
一方で、「自分」が今何を考えているかは「自分」本人にしかわかりません。
相手の心を読むという超能力でもないかぎり、相手の意識をのぞき込むことはできません。不可能なのです。

つまり、「他人」が「自分」に対してどういう考えを持っているかどうかを考えることは、その行為自体「意味のない妄想」でしかないのです。自分自身で作り上げている妄想世界でしかないのです。
「他人が自分を攻撃しようとしている」という妄想も、結局根拠がありません。「根拠のない未来」は常に「妄想」でしかないのです。
そういった「妄想」を作り上げるくらいだったら、意識を常に「今」に向けることの方が大事です。
意識を「今」に向けることにより、余計な妄想をすることなく、心の平穏を得ることができます。

「妄想」は「心の不安」の原因です。
「妄想」と「願望」は違います。
「妄想」と「希望」は異なります。
「妄想」と「予想」は別物です。

「妄想」は心を乱します。
私も当時、そういった強い妄想によって心を乱されていました。常に不安を感じていました。
今だった、油断すると「妄想」に心を捉われてしまい、不安の境地に陥ってしまいます。

そういったときは、深呼吸を行い自分の呼吸を数えるなどして、「今」に回帰するようにしています。
意識が「今」に向くと、自然と落ち着いています。

「過剰な妄想」は心の毒でしかありません。
「妄想の世界」を自ら作り上げ、捉われてしまったときは、深呼吸を行い、「今」に帰ってきてください。




初の米朝首脳会談の感想

2018年6月12日、歴史上初となるアメリカと北朝鮮の首脳による会談がシンガポールにて開催されました。
世界平和に向けて期待できる出来事であり、きっと将来教科書に載るような出来事でしょう。しかし、はたして内容はどうだったのでしょうか?





互いに署名した共同声明がありましたが、政治や軍事の素人である私でもわかります、内容は正直骨抜きです。敵対していた両国の首脳が会い、話し合い、声明を出したことには意味があります。しかし、おそらく一番重要な「北朝鮮の非核化」については内容が薄過ぎると言わざるを得ないでしょう。
プロセスが不明確過ぎます。さらに、「不可逆的な完全な非核化」を文言に盛り込むことができませんでした。
それでも「米朝は平和に向けて互いに協力する」という文言が声明には入っています。これはアメリカによる北朝鮮の現体制が容認されたと言っても過言ではないでしょう。
つまり、今回の会談の勝者は金委員長=北朝鮮なのです。
アメリカやその同盟国が最も望んでいた「不可逆的な完全な非核化」が約束できなかったのですから、もし今回の会談に勝敗をつけるのであればそういうことになるでしょう。

しかし、とは言え、「初の米朝会談」が歴史的快挙であることは間違いありません。
これまで幾度となく六者協議をはじめ、様々な取り組みが北朝鮮によって蔑ろにされてきました。しかし、今回は北朝鮮も簡単には無かったことにはできないと思います。
この「米朝会談」を機に、本当に世界の平和に向けて道筋が開けることに期待しています。

また、今回「国同士の問題はその当事者同士で話し合わなくてはいけない」という事実も明確になりました。日本と北朝鮮の間にある拉致問題です。
日本は今回、この拉致問題が会談において大きく取り上げられることを望んでいました。しかし、それは叶いませんでした。
アメリカと日本が同盟国であっても、首脳同士が仲が良くても、やはりその国はその国にとってのベストな流れを選びます。今のアメリカなら尚更です。

現在、日本と北朝鮮の首脳会談の調整が水面下で進められているなどといった報道もあります。ぜひそうなって欲しいと強く願います。
ただ、北朝鮮は今回アメリカに体制を保証されたことによって、日本に対して強気に出てくることは間違いないでしょう。経済制裁しかカードがない日本が圧倒的に不利です。
この点、日本政府関係者の方々にはどんな手を使ってでも日朝首脳会談をセッティングして頂きたいです。アメリカやロシアを強気に巻き込んででも、とにかくセッティングして欲しいです。

私は拉致被害者の方々が生きていると信じています、願っています。
拉致被害者の方々に母国に帰ってきてもらうために、また日本に残されているご家族の皆様のためにも、日朝首脳会談は絶対に不可欠です。
そして、今もって「北朝鮮のミサイルの射程内にある日本」としても、同じように「平和に向けた協力体制」を共同で採択するべきでしょう。

私自身、今回の米朝会談の内容は考えれば考えるほど、報道を見れば見るほど懐疑的になってしまいます。
しかし、世界の平和に向けた一歩であることは間違いなかったでしょう。一触即発だった両国の首脳が互いに歩み寄り、握手を交わしたのですから。

今後も今回の出来事に向かっていった流れに乗り、世界がより完全な平和に近づくことを願っています。

▼参考サイト
『ダイヤモンド・オンライン』
「金正恩勝利」で終わった米朝首脳会談、元駐韓大使が徹底解説
https://diamond.jp/articles/-/172369




飲み屋依存について

お酒に依存してしまうことは間々あることだと思います。アルコールが身体に入ると、気持ちが高揚したり、楽しくなったり、嫌なことを忘れたりできます。心が弱っているなら尚更です。
私は自宅でお酒を飲むという習慣を持っていません。それは今も昔もです。ひとりで居酒屋に入るということもありません。
しかし、一時期(そう呼ぶには余りに長い期間でしたが)同じ職場の友人や同僚、先輩とほとんど毎日のように居酒屋に行ってお酒を飲んでいました。「飲み屋依存」です。





本当にほぼ毎日行っていました。週5日勤務の際はそのうちの4日、週6日勤務の際はそのうちの5日、もしくは勤務日全ての晩御飯を居酒屋で済ませていました。
毎晩毎晩、浴びるほどお酒を飲んでいたと思います。当時の私の職場の近くに比較的安価でお酒が飲めるお店が多かったことも原因だと思います。
だが何よりも、私を含めて皆が当時の現状に満足していなかったためだと思います。

飲み屋での会話といったら、ほとんどが職場の愚痴だったと思います。
もちろん、楽しい会話も多々ありました。しかし、毎度愚痴からスタートしていたと思います。
毎日愚痴を思いつけるのですから、余程不満があったのでしょう(今となってはどうでもいい内容ばかりですが)。
給料のことや上司のこと、言うことを聞かない部下のことや家庭の不平まで、生きていれば当たり前のことばかりですが、皆いつも不満を抱えていました。
その不満を、集団でお酒を飲むことで解消していたのです。

不満や悩みを誰かに聞いてもらうこと自体は素晴らしいことだと思います。
しかし、問題はその状況に依存してしまったことです。
毎日お酒を飲みながら集団愚痴を言い合うことにより、段々と皆がその状況に依存し始めたのだと思います。簡単に、しかも手っ取り早く気持ちが楽しくなるのですから仕方がないことだったのでしょう。
ただ、それでは何か問題が起きた時にその状況(飲み屋で複数人で飲んで語り合うという状況)を再現しないと、問題を解決できないようになってしまいます。実際、少なくとも私はそうだったと思います。
ひとりで問題と向き合うことができなくなるので、非常に脆い心の状態になっていたと思います。
事実、居酒屋に行かない日は、なんとなく不安な気持ちになっていましたし、人を飲みに誘って断られた日は絶望的な気分になっていました。

さらに言うと、皆で愚痴を言い合っていましたので、マイナス思考がさらなるマイナス思考を呼び、実際には問題は何ひとつ解決していませんでした。
結局、不満がある場合には実際に行動しないと何も変わらないのです。

しかも、毎日お酒を飲むということは、わざわざ書かなくてもご理解頂けると思いますが、身体に大変悪いことです。
肝臓が悪くなったり、アルコール中毒に陥らなかったことが奇跡でした。体型には大きくなるという変化が起きてしまいましたが……

友人や同僚と飲み屋に行くことを否定しているわけではありません。ただ、この記事を読んでいる方々にはその状況に決して依存しないでほしいのです。
悩みや不安、問題を他人に聞いてもらうことは大事ですが、自分自身で問題と向き合い、解決できる能力を得ることの方がより大事です。
お酒に頼り切ってしまうという状態も望ましいものではありません。身体にも経済的にも問題が発生します。

「飲み屋依存」からの脱出には時間がかかります。
そうなる前に、依存になる前に、そういう習慣がある方がもしいたら、考え直してください。




女人禁制について考える

相撲の土俵における女人禁制について、私は時代遅れだと思います。早々にルール変更し、女性も正式な土俵に上がれるようにするべきだと考えています。
ただし、いきなり大きく変化させるのはきっと難しいことでしょう。





土俵上が女人禁制なのは「豊作の女神を楽しませるための相撲の土俵の上に女性が上がってしまうと、男同士の相撲を観て楽しむべきその女神が嫉妬してしまうため」だそうです。決して「女性差別」とか「女性蔑視」とかそういった考え方が根底にあるとかそういうわけではなさそうです。
そういう文化・風習は日本には他にもあります。例えば「(女神である)弁財天が祀られている寺社仏閣にカップルで行くと、弁財天が嫉妬してしまうのでよろしくない」という話もよく聞きます。
あくまで「女神を怒らせない・嫉妬させない」ためのルールであり、「女神から利益を頂くため」のルールなのです。

しかし、男女平等が叫ばれてから随分と長い時が経ち、さらにLGBTなどの状況もある中で、いつまでもこういった風習に従うべきなのでしょうか。

「相撲」は日本の国技です。同時に、開かれたスポーツでもあるべきです。伝統的なスポーツであり、日本固有の文化でもあります。
「伝統」は「変化を続けて今に伝わっているもの」だと私は解釈しています。永く伝え続けるためには、時には意外な変化や革新も必要です。
例として、神田明神が挙げられます。「ラブライブ!」をはじめ、積極的にいろいろなアニメなどとコラボをしています。明治期には歌舞伎(の錦絵?)などともコラボをしていたそうです。
「大相撲」にも「ハッキヨイ!せきとりくん」というキャラクターがいます。ひよこをモデルにした力士達という可愛らしいキャラクターです。「伝統ルール」に縛られていない部分では、相撲も少しずつ現代に合わせて変化しているのです。
それはやはり、相撲を永く伝え続けるためだと考えられます。

土俵上の女人禁制は長い間続いています。いきなり変化させるのは誰だって怖いでしょうし、勇気がいります。
ならば、少しずつでも変化させるのはどうでしょうか。

例えば、最近土俵上で人が倒れた際に土俵に上がって救命措置を行った女性達が話題・問題になりました。
当然ですが、緊急事態です。人の命がかかっています。こういった場合は当然、女性でも土俵に上がれるようにするべきでしょう。
また、女性市長が土俵上であいさつをすることも拒否されたことがやはり話題・問題になりました。
当然ですが、女性市長は相撲を取るために土俵に上がろうとしたわけではありません。あくまで市長としてあいさつをしようとしていただけです。
普通に考えて「豊作の女神」が嫉妬するでしょうか。女神目線で考えても甚だ疑問です。それは先程の救命措置の件でも同様です。土俵上で救けが遅れて人が亡くなってしまうことを、果たして女神が喜ぶのでしょうか。

いきなり「女性大相撲」といったものを国技館で開くことは難しいでしょう。しかし、変化は必要です。LGBTの件もあります。
「豊作の女神を嫉妬させない」という原点から考えても、表彰やあいさつのために女性が土俵に上がることは容認されるべきだと考えます。

現在、学校の部活動などで女性の相撲部員が増えているといは話も聞きます。
今すぐはきっと難しいとは思います。しかし、外国人にも相撲参加の機会を認めたのであれば、女性の本格的な相撲参加もいずれ認められるべきだと思います。

変化しながら続いていくものが伝統です。
相撲が伝統文化であるならば、時代に合わせてより良い選択ができるような「国技」であるべきです。

まずはできる部分からの変化・改革を望みます。